Franco BARESI

フランコ・バレージ

フランコ・バレージの写真
 フルネームフランチェスキーノ・バレージ
 国籍イタリア
 生年月日1960年5月8日
 出身地ベルガモ
 ポジションDF
 身長・体重172cm・76kg
 個人タイトル1992年欧州最優秀選手投票2位
(F・F誌)
 ワールド杯1982年優勝
1990年3位
1994年準優勝
所属クラブ
1977-97ミラン

80年代〜90年代ミランのシンボルにして、ミラン史上最高のリベロ。蒼々たるメンバーが揃ったミラン黄金期においてピッチ内外を問わず絶大な存在感でチームを牽引、冷静に指示を出し完璧にバックラインを統率すれば次の瞬間には自ら激しいタックルでボールを奪いに行く。バレージによってもたらされた鉄壁のDFによってミランは黄金期を迎えたのである。

1960年5月8日トラヴァリアートで生まれ母親は彼が13歳の時に他界、そして彼の父親もその4年後に交通事故で亡くすが姉ルシア、兄ジュゼッペと共にたくましく成長する。初めて受けた入団テストはミランのライバルチームであるインテル。兄とともにテストを受けるが体格が華奢なことからあえなく落選、兄のジュゼッペだけが合格し後に兄弟ながらミラノダービーで最大のライバルとして対戦する事となる。

バレージがミランに入団したのは14歳の時。その後ユースチームで経験を積むとそこでの活躍が当時の監督リードホルムの目にとまり1978年4月23日対ヴェローナ戦、18歳でトップデビューを飾る。翌シーズンより主力として活躍しデビュー2年目にしてスクデットに大きく貢献するとジャンニ・リヴェラの引退に華を添えた。

チームの旗頭、リヴェラを失ったクラブは新しいバンディエーラにバレージを指名、彼はこの時からミランのシンボルとしてプレーをすることとなるがミランのシンボルとして改めてスタートを切った彼にいきなり災難が発覚。79/80シーズンのラツィオ戦にてかけられた八百長疑惑によりチームはB降格、歴史に残る大事件に巻き込まれたのであった。翌年すぐ昇格するも2年後にはチームの不調により再び降格。彼のミランにおけるキャリアは苦しいスタートとなった。その後もミランの苦戦は続いたが、87/88シーズンに9シーズンぶりのスクデットを獲得すると、そこから素晴らしいミランの歴史が幕をあける。翌シーズンからチャンピオンズカップ2連覇を達成。同じくトヨタカップ2連覇を達成すると欧州スーパーカップと合わせて3冠を2年連続達成。91/92シーズンには22勝12分無敗と驚異的な成績でスクデットを獲得、その後も無敗は続き58試合まで記録を伸ばし、チームはリーグ3連覇を達成すると93/94シーズンにもチャンピオンズリーグとトヨタカップの2冠を達成した。世界最強を誇ったミランには蒼々たるメンバーが歴史に名を残したがバレージこそが最大の功労者であったのは言うまでもない。

代表デビューは1982年12月4日ルーマニア戦。このデビュー前に開催されたワールドカップスペイン大会では優勝チームに名を連ねるが当時のイタリア代表には絶対的なリベロ、ガエタノ・シレアが君臨していたため出場する機会を得ることが出来なかった。その後のルーマニア戦にて祈願の代表デビューを果たしシレアの代表引退後には絶対的地位を確立させた。1990年アメリカ大会では3位に貢献すると迎えた1994年アメリカ大会決勝。怪我により出場が絶望視されていたが驚異的な回復を見せ決勝のピッチに姿をあらわしたバレージは、ブラジル最強2トップ、ベベット、ロマーリオを完封するも優勝を決めるPK戦では自身のPK失敗により準優勝に終わったのは残念な所。代表通算81試合1得点。31試合でキャプテンを務めた。

1997年、20年間に渡りミランのバックラインの心臓として君臨したバレージは現役を引退。リヴェラの引退、B降格、チャンピオンズカップ2連覇、90年代初頭の黄金期。良くも悪くもミランのあらゆる歴史に関わった彼はまさにミランの歴史そのものなのである。彼とミランの歴史に敬意を表し、背番号6が永久欠番となっているのも容易に理解出来る所である。

(01/03/15 Created)(03/04/16 Last updated)
Presented by SHOW
, collaboration is LEVEL-K
football Island
LEVEL-Kバナー
FOOTBALL ISLANDバナー