Oleg BLOKHIN
オレグ・ブロヒン | ||||||||||||||||||
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「ウクライナの矢」今でこそこれはシェフチェンコの異名として知られているが、そのシェフチェンコが生まれる1年前の1975年、ソ連国内で4年連続の得点王に輝き22歳ながらバロンドールを受賞、その素晴らしいスピードと正確なシュートから人々に「ウクライナの矢」と呼ばれていたストライカーがいた。それがこのブロヒンである。クライフやベッケンバウアーらが全盛期だったにも関わらず、42Ptを集めたベッケンバウアー、27Ptを集めたクライフに大差をつける122Ptを獲得してのバロンドール受賞は、当時何よりも価値の高い名誉であった。 ソ連の女子100メートル走の記録保持者であった母の血を受け継いだブロヒンは学生時代には100メートル10秒8というタイムを記録、ソ連の陸上界の注目を集めるが、彼が選んだ道はサッカーであった。15歳の時にディナモ・キエフにてトップデビューを飾ると、その後は名将ヴァレリー・ロヴァノフスキーのもと、着実に成長を続け18才の時にはレギュラーに定着、その年に最初のリーグ得点王に輝く。その後は毎年のようにゴールを量産、4年連続得点王に輝くと1975年にはスーパーカップとカップ・ウィナーズカップの2冠達成、中でもスーパーカップ決勝ではゼップ・マイヤー、ベッケンバウアー、G・ミュラー、ルンメニゲとそうそうたるメンバーを擁するバイエルンを相手にアウェーで1−0、ホームで2−0と完勝。この3得点全てを決めたのがブロヒンであり、この年の活躍が認められブロヒンはバロンドールを受賞したのである。1977年には通算5度目となるリーグ得点王に輝いたブロヒンはディナモ・キエフ在籍19年でリーグ制覇8回、国内カップ5回、カップウィナーズカップ2回、スーパーカップ1回を獲得。1973年、74年、75年と3年連続してソ連年間最優秀選手賞を受賞し、その能力に相応しいタイトルの数々を手中にしたのである。 代表では当時の国内リーグでの活躍を受けて1972年の7月16日、フィンランド戦でデビューを飾る。ブロヒンにとって最初の国際大会であった1972年のオリンピックで銅メダルを取ると1976年にも銅メダルを獲得。1982年、86年にはワールドカップにも出場する。国としてはあまりタイトルには恵まれなかったが、1986年にはソ連代表として初めて100キャップを達成した選手になると最後には112試合出場を達成。代表通算42得点とソ連代表最多記録を残した。この記録はソ連が崩壊した現在となっては2度と破られることのない永遠に歴史に残る記録である。 晩年はオーストリア、キプロスのクラブを渡り歩き現役を引退。引退後はオリンピアコス、PAOKサロニカ、イオニコスとギリシャのクラブにて7年間監督を務めるとその後ウクライナにて政界にも進出。2003年9月にはユーロ2004予選に敗退した同国の代表監督に就任し2006年W杯欧州予選にてグループリーグ首位に立つ素晴らしい采配を見せている。 (01/03/15 Created)(04/04/04 Last updated)Presented by SHOW , collaboration is LEVEL-K football Island | ||||||||||||||||||