Zbigniew BONIEK
ズビグニェフ・ボニエク | ||||||||||||||||||
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強力なシュート力と強大なスタミナを持ち、また中盤のゲームメイク、パス能力とドリブル能力にも非凡さを見せたポーランド史上最大のスター。1982年ワールドカップスペイン大会では母国ポーランドを3位に導く快挙を成し遂げ、クラブでも名門ユベントスにて1980年代前半に一時代を築いた、人々の記憶に深く残る選手であった。 ビドコシュチで生まれ育ったボニエクはすぐに地元のチーム、ザビシャ・ビドコシュチでプレーを開始すると程なくポーランドで偉大なチームの1つであるビジェフ・ウージにスカウトされる。ここで才能を開花させたボニエクは7シーズン在籍で156試合50得点を記録し、80/81シーズン、81/82シーズンのリーグ戦連覇に貢献した。 代表では1976年3月24日のアルゼンチン戦でデビューを飾ると同年6月11日のアウェーのスイス戦では初ゴールを記録。1978年にはワールドカップアルゼンチン大会メンバーに召集される。ドイツ、チュニジア、メキシコと同居した1次グループリーグを1位で通過(メキシコ戦で2ゴールを記録)するが、2次グループリーグで最終的に大会優勝を果すことになるアルゼンチンに完敗すると、ブラジルにも破れあえなく敗退となった。そして4年後のワールドカップスペイン大会。ここでも後に大会優勝チームとなるイタリアと1次グループリーグで同居するが1位で勝ち抜け、2次グループリーグに進出。2次リーグ初戦となったベルギー戦でボニエクはハットトリックを決めベルギーに完勝。2次グループリーグを勝ち抜けるが、準決勝にはボニエクは累積警告により出場することが出来ず、再び合いまみえたイタリアに完敗を屈する。しかし3位決定戦にて復帰したボニエクを先頭にポーランドはプラティニ、ジレス、ティガナ擁するフランスに3ー2で競り勝ち堂々の3位を飾った。 このワールドカップ3位入賞を機に、ポーランドの法律により国内でのプレーを強いられていたボニエクはイタリアの名門ユベントスへの移籍が認められ、82/83シーズン、26歳にて海外進出を果たす。ここで、同シーズンにユベントスに加入したプラティニやロッシ等と供に破壊的な攻撃布陣を形成し在籍わずか3シーズンでスクデット、コッパイタリア、カップウィナーズカップ等可能な限りの全てのタイトルに貢献、84/85シーズンチャンピオンズ・カップ決勝では決勝PKを導き出す活躍でクラブ初となる祈願のタイトルに貢献したが、その栄光も「ヘイゼルの悲劇」によって多少影が薄いものとなったのは残念な所。ボニエクは週末の夜の試合でいつも素晴らしいプレーを見せたことから『Bello di Notte=Beauty of the Night』とジャンニ・アニエリに名づけられサポーターからもこの愛称で呼ばれ、親しまれた。 85/86シーズンよりローマへ移籍をするとコッパイタリアを獲得。1986年ワールドカップメキシコ大会ではスタミナにこそ衰えが見られたが高い技術力は色あせておらず、スウィーパーのポジションでチームに貢献した。代表通算80試合24得点。現役引退後はレッチェ、バリ、アヴェリーノ等で監督を努めたあと、TVのコメンテーターなども経験。2002年には母国代表監督も勤めた。 (01/03/15 Created)(03/08/20 Last updated)Presented by SHOW , collaboration is LEVEL-K football Island | ||||||||||||||||||