Alfredo DI STEFANO

アルフレッド・ディ・ステファノ

アルフレッド・ディ・ステファノのフォト
 フルネームアルフレッド・エステファノ・
ディ・ステファノ・ラウテ
 国籍アルゼンチン・スペイン・コロンビア
 生年月日1926年7月4日
 出身地バラカス(ブエノスアイレス)
 ポジションFW・MF
 身長・体重178cm・76kg
 個人タイトル1956年欧州最優秀選手投票2位
1957年欧州最優秀選手
1959年欧州最優秀選手

(F・F誌)
 ワールド杯1962年グループリーグ敗退
所属クラブ
1945リバープレート
1946ウラカン
1947-49リバープレート
1949-52ミジョナリオス(コロンビア)
1953-64レアル・マドリード(スペイン)
1964-66エスパニョール(スペイン)

「ブロンドの矢」とまで称される抜群のスピードを誇り、ドリブルから決定力、パス能力に至る素晴らしい攻撃センスで周囲を魅了圧倒、40年代から60年代にかけ世界を熱狂させたスーパースターである。サッカーの神様と言われる元ブラジル代表ペレと互角の実力を持ちアルゼンチン、スペイン、コロンビアと3国の代表としてもプレーしたがワールド杯とは無縁であった事で、その名は常にペレの後塵を拝する、しかしクラブレベルで獲得した数々のタイトルから、その実力の程は証明されている。

イタリア移民の子としてアルゼンチンに生まれ、父親はプロサッカー選手。とは言え家計は苦しく、家族のため過酷な労働を強いられる事となるがこの経験が後の強靱な肉体と驚異的なスタミナを育む事となる。地元イマーン・ブエノスアイレスというクラブを経て1943年に名門リバープレートに加入、1945年7月15日ウラカン戦にて右ウィングとしてプロデビュー、この試合がきっかけとなり翌年にウラカンに移籍し才能を開花させると1年でリバープレートへ復帰し1947年のリーグ優勝に加え得点王獲得、一気にスターダムへとのし上がる。同年12月4日に代表デビューも果たし1949年コパアメリカでは6得点を挙げ母国の優勝に貢献している。

アルゼンチンで輝かしいサッカー生活が続くと思われたが時代がそれを許さなかった。第2次世界大戦で荒れ果てたアルゼンチンの国内情勢は乱れ、選手への報酬は満足に支払われず、選手による大々的なストライキが勃発する。このストライキを受けたFIFAはアルゼンチン国内での選手のプレーを禁止。これにより当時多くの選手がFIFAの管轄外であったコロンビアにプレーの場を求め、彼もミジョナリオスに移籍をする。活躍の場を変えても彼のプレーは輝きを失うことは無く、リーグ、カップ戦など全てを合わせて292試合に出場、実に267ゴールを記録し、49年、51年、52年、53年のリーグ優勝と51年(31得点)、52年(19得点)での得点王と数々のタイトルをもたらし、ミジョナリオスをコロンビア最強のクラブチームにする。

この活躍からコロンビアサッカー連盟はディ・ステファノをコロンビア代表にすることを強く望み、彼はコロンビア国籍を取得、コロンビア代表として4試合の出場を果たしている。その後バルセロナとの激しい獲得争いの末レアル・マドリードへ移籍、1953年9月27日ラシン・クラブ戦にてリーグデビューを飾ると以後50年代から60年代にかけての黄金期を築く事となる。リーガ優勝8回を始め、5度の得点王に輝く決定力も見せバロンドールにも2度選出、チャンピオンズ・カップ5連覇の偉業にもディ・ステファノ抜きでは達成出来なかったと断言できる。1956年にはスペイン国籍を取得、1957年にスペイン代表としてデビュー。しかし当時のスペイン代表は突出した選手がいないためワールド杯優勝を狙えるようなチームではなく1962年ワールド杯おいては自身は怪我のため出場さえ出来なかった。

余談だが、ピッチ内はもとよりピッチ外でも多大な権力を有し、どんな偉大な選手であろうとディ・ステファノと衝突すればレアル・マドリードでは居場所を失う程であったらしい。

(01/03/15 Created)(06/08/22 Last updated)
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