Sinisa MIHAJLOVIC
シニシャ・ミハイロビッチ | ||||||||||||||||||
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DFでありながら左足から繰り出されるロングパスは素晴らしい正確性を持ち、そしてミハイロビッチを語る上で必ず話題になるのがフリーキックである。破壊的ともいえるスピードで急激に落ち、その射程距離は40メートルをも超えるといわれ、1998年12月18日対サンプドリア戦では前代未聞ともいえるFKのみのハットトリックを達成している。ハードマークとしても知られ、ヴォイヴォディナ時代には当時レッドスターの英雄ストイコビッチを激しく削り4針をも縫う大怪我を負わせた事もある。 現在のクロアチア、ヴコヴァルにて生まれたシニシャ・ミハイロビッチは10代の頃強豪ディナモ・ザグレブのテスト生としてプレーするが能力を認めてもらえず、「トップチームでのチャンス無し」と屈辱的評価を受ける。その後ユーゴスラビア3部リーグボロヴォにてキャリアをスタートさせヴォイヴォディナにてプロデビューを果たす。90/91シーズン途中に名門レッドスターへ引き抜かれるとサビチェビッチ、ユーゴビッチ、プロシネツキ等と黄金の中盤を構成、このシーズンのリーグ優勝に加えクラブ祈願のチャンピオンズ・カップ制覇に大きな役割を果たした。(決勝マルセイユ戦ではPK戦までもつれる混戦において4人目のキッカーとしてPKを成功させている。) 1991年12月8日に開催されたトヨタカップでも来日しフル出場、コロコロを相手に3ー0の完勝に貢献、世界NO1の称号も手中にして見せた。92/93シーズンよりローマへ引き抜かれ1992年9月6日ペスカラ戦にてセリエAデビュー、その後移籍したサンプドリアで現イングランド代表監督エリクソンによってリベロへコンバートされ、更に輝くプレーを見せるようになる。その後エリクソンがラツィオ監督となると、後を追うようにラツィオへ加入、98/99シーズンのカップウィナーズ・カップに大きく貢献すると翌シーズンにはスクデット獲得に大きな役割を果たして見せたのである。エリクソンがクラブを去った後は年齢的なものもあり出場機会も減っていったがマンチーニ監督が指揮を取った02/03シーズンに見事な復活を遂げ、主力放出で低迷が予想されたチームの躍進に大きく貢献した。その後04/05シーズンよりマンチーニが指揮する事となったインテルへ移籍、このシーズンのコパ・イタリア決勝第2戦(ローマ戦)では貴重なFKから得点を挙げ、チームにとって16年振りのタイトルに貢献、魔法の左足が健在である事も証明し、翌シーズンにも同タイトルを獲得し現役を引退した。 代表デビューは1991年5月16日フェロー諸島戦。国内内戦から国際舞台から遠のく不運を経験するが、国際舞台復帰後は不動の主力として活躍、1998年W杯初戦イラン戦では貴重な決勝FKを決めて母国を8年振りのワールド杯勝利に導いた。ドイツ戦でのオウンゴールは不運であったが、低迷ぎみであったチームの中で素晴らしい存在感を見せつけベスト16進出に最も貢献したプレーヤーといえる。2003年6月7日フィンランド戦を最後に代表を退き63キャップ10得点の記録を残した。 余談ではあるが、若き日のミハイロヴィッチはメンズ・ファッションのモデルをも務め、雑誌の人気投票で断トツの1位になるほど女性ファンの心も掴んでいたらしい (04/02/23 Created)(06/04/30 Last updated)Presented by SHOW football Island | ||||||||||||||||||