Daniel PASSARELLA

ダニエル・パサレラ

ダニエル・パサレラのフォト
 フルネームダニエル・アルベルト・パサレラ
 国籍アルゼンチン
 生年月日1953年5月25日
 出身地ブエノスアイレス
 ポジションDF
 身長・体重174cm・71kg
 個人タイトルなし
 ワールド杯1978年優勝
1982年2次リーグ進出
1986年優勝
所属クラブ
1966-73アルヘンチノ・チャカブコ
1973サルミエント・フニン
1974-82リバープレート
1982-86フィオレンティーナ(イタリア)
1986-88インテル(イタリア)
1988-89リバープレート

小柄ながら並外れたパワーと跳躍力によって「エリア内の守護神」と呼ばれ両足のテクニックにも非凡な才能を持ち合わせた元アルゼンチン代表DF。けして妥協を許さない強い精神力、勝利への追求心は「闘将」と呼ぶに相応しく代表キャプテンとして絶大な存在感を示した。ニックネーム=エル・ゲレーロ(戦士)。

1974年4月14日ロサリオ・セントラル戦にて1部リーグデビューを果たしたダニエル・パサレラはここですぐに頭角を現し1970年代中期の黄金期を支え数々のタイトルに貢献する。1982年よりイタリアへ渡りフィオレンティーナへ加入、リベロとして絶大な存在感を示し、在籍4シーズンでDFとしては脅威の26得点を挙げる活躍を見せたがタイトルに恵まれず83/84シーズンのセリエA3位が最高成績であった。86/87シーズンよりインテルへ移籍、ここでもタイトルとは無縁であったが、セリエA在籍通算6シーズンで通算35得点、セリエAにおけるDFの得点記録を塗り替え1988年より古巣リバープレートへ戻り現役を引退した。

代表デビューは1976年3月20日ソ連戦。その後カラスコの後を継ぎキャプテンに任命されると1978年W杯にて母国に初の栄冠をもたらす。1982年大会では優勝候補に挙げられながらまさかの2次予選にて敗退、その後アルゼンチンにはパサレラをも凌ぐ英雄マラドーナの出現により、序所に代表での居場所を無くす事となる。1982年W杯後、代表指揮官となったビラルド監督はマラドーナを中心とするチームを構成、マラドーナはラモン・ディアスを始めとする主力、そして当時代表キャプテンであったパサレラをも「代表から外して欲しい選手」に名を挙げる。結果的にマラドーナの力により1986年W杯にてアルゼンチン代表は再び優勝する事となったが、メンバーに選ばれながら当時パサレラより明らかに能力の劣ったブラウンがセンターバックで器用され、パサレラは1試合の出場も果たせなかった。それでも、パサレラの現役時代のプレーは、あのベッケンバウアー、そしてボビームーア等に匹敵するリベロとして今尚高く評価されており、代表通算70試合の中でディフェンダーとしては驚異の22ゴールを記録している。

引退後は監督として名を挙げ、アルゼンチン代表監督に就任、その強い個性は見方によっては「独裁者」とも取れる政権をふるう。バティストゥータやレドンドに「髪を切らないなら代表見送り」と警告、この結果レドンドは最後まで抵抗し1998年W杯を棒に振っている。1998年W杯準々決勝敗退後に監督を辞任、その後ウルグアイ代表の初の外国人監督として注目を集めたが成績不振から2001年に辞任している。また、01/02シーズンに中田の所属するパルマを指揮したが中田を重要視しなかった上に成績不振から解任されたのは日本人としても記憶に残る所である。監督となってからは何かと批判の対象になる事も多いが、ただ1つ言えるのは、この強烈な意志の強さを持ち合わせていたからこそ現役時代の成功があったのは間違い無い所、今後大きな成功を勝ち得る可能性も十分に秘めている。

(01/06/23 Created)(07/02/14 Last updated)
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