Roberto PRUZZO

ロベルト・プルッツォ

ロベルト・プルッツォのフォト
 フルネームロベルト・プルッツォ
 国籍イタリア
 生年月日1955年4月1日
 出身地クロチェフィエスキ
 ポジションFW
 身長・体重180cm・75kg
 個人タイトルなし
 ワールド杯なし
所属クラブ
1973-78ジェノア
1978-88ローマ
1988-89フィオレンティーナ

1980年代、その突破力と強烈なヘディングを武器に得点を量産したローマ史上最高のストライカーと呼ばれるのがこのロベルト・プルッツォである。10年間在籍したローマで3度の得点王に輝きローマで彼が積み重ねた106ゴールは2004年トッティに破られるまで17年間ローマ歴代最多得点記録であった。41年ぶりのスクデットとクラブ史上初のチャンピオンズカップ決勝進出を成し遂げた80年代ローマのエースストライカーだったプルッツォは伝説のストライカーとして今なおファンの間で語り継がれている。

1955年、ジェノアのクロチェフィエスキで生まれたプルッツォは地元の名門ジェノアとプロ契約を結ぶ。1973年12月2日チェゼーナ戦でセリエAデビューを飾るが、この年クラブはセリエBへ降格、プルッツォ自身も19試合に出場しながら1度もゴールネットを揺らす事が出来なかった。しかし、このセリエB降格はプルッツォにとって「経験を積む」という大きな意味をもたらし日々を追って才能を開花、デビューから3シーズン目となる75/76シーズンには18得点を決めセリエB得点王に輝き、チームもセリエA昇格を決めた。

セリエAの舞台に戻ったプルッツォはその後加入する事となるローマ戦(1976年10月2日)でのセリエA初得点以来数多くのゴールを記録、セリエA復帰1年目に得点ランク2位となる18得点を記録すると翌シーズンにも9得点を挙げ、1979年に名門ローマへ3億リラで引き抜かれ、ここからローマでの伝説が始まる事となる。80/81、81/82シーズンと2年連続得点王に輝くと82/83シーズンには1942年以来、実に41年ぶりとなるクラブ史上2度目のスクデット獲得に貢献、さらに翌シーズンにはクラブ史上初となるチャンピオンズカップ決勝進出を果たしている。

チャンピオンズカップ決勝で対戦したのはイングランドの名門リバプール。試合は15分にリバプールのフィル・ニールに先制点を許したローマだったが、その23分後にプルッツォが同点ゴールを決め前半を1ー1で折り返す。後半は攻防一体が続き、両者無得点のまま勝敗はPK戦に委ねられた。PK戦は4人が決めたリバプールに対してローマは相手ゴールキーパーグロベラーのスパゲッティレッグと呼ばれたフェイントの前にコンティとグラツィアーニが失敗。チームに初の栄冠をもたらすことは叶わなかった。なお、このPK戦でプルッツォはキッカーを務めていない。

その後、プルッツォはユベントスのプラティニに3年連続奪われていた得点王の座を奪取し85/86シーズンに3度目の得点王を獲得。このシーズン、アヴェッリーノ戦では1試合5得点という記録を達成している。ローマに在籍した10年間で、240試合106得点。得点王3回にスクデット1回、コッパイタリア4回を獲得したプルッツォはローマの英雄となり、やがて伝説として語られるようになったのである。

ローマでは数多くのゴールを記録したプルッツォだったが代表ではその持味を活かす事は出来なかった。1978年9月23日のトルコ戦で祈願の代表デビューを果たしたもののベッテガ、グラツィアーニ等有能なストライカーのサブに甘んじ通算6試合の出場機会に終わっている。

ローマで数々の記録を残し、最高の選手生活を送ったプルッツォは88/89シーズン、フィオレンティーナで1シーズンを過ごした後現役を引退した。引退後はパレルモやフォッジャなど地方のクラブで監督やアシスタントコーチなどを務めている。

余談ではあるが、今日では当たり前になった、得点後にユニフォームを脱いで喜びを表現するパフォーマンス。これを生み出したのは何を隠そうこのプルッツォである。トレードマークの口ひげと得点後全身で喜びを表現するプルッツォはロマニスタにとって最も愛すべきプレイヤーだったのである。

(08/03/05 Created)
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