Vincenzo SCIFO
ヴィンツェンツォ・シーフォ | ||||||||||||||||||
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技術、スタミナ、柔軟性を兼ね備え、かのミシェル・プラティニに「シーフォは20世紀でもトップクラスのゲームメーカー」とまで言わしめた元ベルギー代表ゲームメーカー。その洗練された技術から奏でる素晴らしいゲームメイクにより、弱冠20歳で1986年ワールドカップ、ベルギー代表4位の立役者となると、その後ワールドカップには通算4回出場。数少ないワールドカップ4回出場選手になったシーフォはベルギー代表に決して欠くことのできなかったプレイヤーであった。 イタリア人だが両親がベルギーに働きに来ていたことからベルギーの西部にあるラ・ルヴィエールと言う小さな町で生まれ育ったシーフォはこの町でサッカーを始めた。ジュニアユースではわずか4シーズンで実に432得点を決めたことから「リトル・ペレ」の異名で知られ、弱冠14歳でアンデルレヒトに移籍。17歳になる少し前にはトップチームに昇格を果たすと83/84シーズンにトップデビューを果たし、同年にはUEFAカップ決勝に進出。トッテナムにPK戦の末破れるが、チームに馴染んだシーフォはその後リーグ3連覇に貢献し、84/85シーズンには14得点を記録。ゲームメイク能力だけではなく、その得点能力の高さも示すとともに1984年にはゴールデンブーツ(ベルギー年間最優秀選手)を受賞した。 1984年6月、18歳のときに代表入りを望まれベルギー国籍を取得。1984年6月13日の欧州選手権のユーゴスラビア戦で代表デビューを飾り18才115日という欧州選手権最年少出場記録を樹立すると1986年ワールドカップメキシコ大会に出場。パフ、ゲレツ、クーレマンス等とともに1次リーグを突破すると決勝トーナメント1回戦ではベラノフのソ連を延長の末に破り、準々決勝のスペイン戦ではPK戦を制して勝ち抜け、準決勝にこまを進めた。準決勝のアルゼンチン戦でマラドーナの2得点の前に完敗を喫し、3位決定戦でもフランスに敗れるがベルギーの4位入賞は一大旋風を巻き起こし、弱冠20歳ながら全7試合に出場、2得点を記録したシーフォはその将来性を買われ多くのトップクラブがシーフォ獲得に向けて熾烈な争いを繰り返した。 そしてこの獲得争いを制したのがイタリアのインテルであった。しかしインテルでは慣れない環境に加え、翌シーズン加入のマテウスとのポジション争いに勝てず、わずか1シーズンでボルドーにレンタル移籍する事になった。しかし一度崩れたリズムを取り戻すことは難しく、ボルドーもわずか1シーズンの在籍にとどまり失意のうちにクラブを後にする。そして89/90シーズンよりオセールに移ったシーフォに転機が訪れる。名将ギー・ルーの元、ウィングにコンバートされると再び輝きを取り戻し2シーズンで70試合25得点を記録。再びイタリアでの挑戦を決意し91/92シーズンよりトリノへ移籍を果たした。 トリノではUEFAカップ決勝でアヤックスにアウェーゴールの差で敗れるがクラブ初となるUEFAカップ決勝進出の快挙を成し遂げると92/93シーズンには22年ぶりとなるコパイタリア制覇をもたらし、成功を収めた。 4年前の再来を期待された1990年ワールドカップイタリア大会では、1次グループリーグのウルグアイ戦でゴールを決め、決勝トーナメント進出に貢献するがトーナメント初戦のイングランド戦にて延長の末プラットに得点を許しベスト16に終る。その後も1994年アメリカ大会、1998年フランス大会と出場し、歴代14人目のワールドカップ4大会出場選手となり、フランス大会後代表を引退した。代表通算84試合18得点。 クラブではその後モナコ(優勝1回)、アンデルレヒト(優勝1回)を経て00/01シーズンのシャルルロワを最後に怪我を理由に現役を引退した。早熟ゆえ、若くしての海外移籍によりスランプに陥りクラブを多く変えたこともあったが、代表、クラブともに成し遂げた数々の功績は決して色あせることは無いだろう。 (01/03/15 Created)(03/08/27 Last updated)Presented by SHOW , collaboration is LEVEL-K football Island | ||||||||||||||||||