Hristo STOICHKOV

フリスト・ストイチコフ

フリスト・ストイチコフのフォト
 フルネームフリスト・ストイチコフ
 国籍ブルガリア
 生年月日1966年2月8日
 出身地プロフディフ
 ポジションMF・FW
 身長・体重178cm・72kg
 個人タイトル1992年欧州最優秀選手投票2位
1994年欧州最優秀選手
(F・F誌)
1992年世界最優秀選手投票2位
1994年世界最優秀選手投票2位
(FIFA)
 ワールド杯1994年ベスト4
1998年グループリーグ敗退
所属クラブ
1984-90CSKAソフィア
1990-95バルセロナ(スペイン)
1995-96パルマ(イタリア)
1996-98バルセロナ(スペイン)
1997-98CSKAソフィア
1998アル・ナスル(サウジアラビア)
1999-00柏レイソル(日本)
2000-02シカゴ・ファイヤー(米国)
2003ワシントンDC・ユナイテッド(米国)

屈強な体格でありながらスピードとテクニックを兼ね備えた、ブルガリア史上最高のスター選手。気性の荒さからたびたび問題を起こすトラブルメーカーであったが、その才能は素晴らしく、中でも左足から放たれる強力かつ正確なシュートは数々の得点を生み出し、バルセロナ時代にはチームの4連覇に貢献、世界的名声を手に入れた。

ブルガリア第2の都市、プロフディフで生またストイチコフは地元のチーム、スパルタク・プロフディフのゴールキーパーを務めていた父の影響を受け幼い時からサッカーに慣れ親しんで育った。マリツァ・プロフディフ、ヘブロス・ハルマンリにて経験をつんだストイチコフは当時のCSKAソフィアの監督、ディミタール・ペネフの目にとまり同チームにて念願のプロデビューを果たす。しかし移籍初年度に事件は起こった。その年クラブは国内カップ戦にて決勝まで勝ち進むが、その決勝戦にて両チーム間で起こった争いによりチームは翌シーズンのプレイを全て禁止されたのである。これにより85/86シーズンを棒に振ったストイチコフであったが復帰後は守備的ミッドフィルダーとして活躍、チームのリーグ制覇に貢献する。その後は活躍とともに前線も任され、88/89シーズンには23得点で初の得点王獲得、翌シーズンには38得点を決めリーグ得点王とともにゴールデンブーツ賞を受賞する。ストイチコフが得点王になった2シーズン、チームはリーグ2連覇を達成した。

バルセロナとの出会いは、ストイチコフが初の得点王に輝いた88/89シーズン。カップウィナーズ・カップに出場していたCSKAはセミファイナルでバルセロナと対戦、ここでは完敗を喫するが、その2試合両方で得点を決めたのがストイチコフであった。この活躍に目をつけた当時のバルセロナ監督クライフは彼との契約を急いだがCSKAは1年残っている契約を理由に拒否、契約満了となった1年後ゴールデンブーツ賞を手土産にスペインに渡った。1990年9月1日エスパニョール戦にてリーガデビューを果たしいきなり決勝弾を記録、その後3試合連続ゴールを挙げるなどの活躍を見せたがリーグ中盤戦で審判の足を故意に踏みつけ4ヶ月の出場停止処分を受けたのである。しかしチームに復帰後、ストイチコフは出場停止を埋め合わせるように活躍しすぐにサポーターのアイドルにまで上り詰めたのだった。チームはその年、5連覇を続けていたレアル・マドリーを押さえリーグを制覇するとそのまま4連覇を達成。1992年にはイタリアのサンプドリアを破りバルセロナに初のチャンピオンズカップをもたらすなど黄金期を築き上げ、自身も89、90、91、92、94年と5回の母国年間最優秀選手に輝いたのだった。

代表デビューは1986年10月7日の東ドイツ戦。デビュー戦でゴールを決めるなど華々しいスタートをきるが、国際大会出場は1994年のワールドカップまで叶えることは出来なかった。1993年11月17日、ワールドカップ予選最終戦となったフランス戦、ロスタイムに逆転という劇的な勝利でアメリカ大会に出場を決めると本大会ではグループリーグを勝ち抜け、準々決勝ではマテウスやクリンスマンを擁するドイツを相手に同点弾を決めた後決勝点をアシスト、大金星を挙げ準決勝進出を決めたのであった。その後は連敗により敗退してしまうがそれまでワールドカップ未勝利であった母国を4位まで導き、自身は6得点で大会得点王となる。この活躍で高く評価され1994年にブルガリア年間最優秀アスリートに選出されると、同年、ブルガリア人初となるバロンドール(欧州年間最優秀選手)を受賞した。代表通算84試合37得点。

クラブではその後、パルマを経て96/97シーズンにはバルセロナにて国内カップ、カップウィナーズカップ、欧州スーパーカップの3冠に貢献。1998年ワールドカップではグループリーグで敗退すると97/98シーズンにはブルガリア、サウジアラビアを転々とし、1999年には日本にも来日。柏レイソルにて2シーズンを過ごしたあと北米リーグ、シカゴ・ファイアーに移籍をする。すでに34歳を過ぎていたが、怪我で13試合を欠場したにも関わらず18試合9得点という記録を残し、チームのアメリカカップ制覇に貢献すると、その年のリーグベストイレブンに選出する活躍を見せた。そして迎えた2003年、その年に移籍したワシントン・ユナイテッドにて12月に現役を引退、翌年5月バルセロナの本拠地カンプノウにて引退試合が開催され、この際、バルセロナ会長並びにブルガリア大統領によりその功績を表彰されている。現役引退後はバルセロナのコーチに就任。ストイチコフはスペインのバルセロナに本人念願の「ザ・フリスト・ストイチコフ・サッカー・アカデミー」を開校していることからこの地が彼の第2の故郷になるようである。

最後に余談ではあるが彼は母国語であるブルガリア語をはじめ、イタリア、スペイン、フランス、ポーランド、ロシア語の6ヶ国語を操るインテリとしても知られている。

(01/03/15 Created)(04/06/02 Last updated)
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