Rudi VOLLER
ルディ・フェラー | ||||||||||||||||||
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クリンスマンと並ぶ歴代2位の代表得点記録、代表通算47得点をクリンスマンより18試合も少ない試合数で成し遂げたドイツを代表するストライカー。典型的なストライカーであり、特にペナルティエリア内では絶対的な強さを誇ったフェラーだが、そのプレーゾーンは非常に広くチャンスメーカーとしても素晴らしい能力を発揮した。代表通算90試合47得点。 フランクフルトの東、ハナウの町で生まれたルディ・フェラーは17歳の時にオッフェンバッハ・キッカーズにて2部リーグデビュー(1977年11月26日ダルムシュタット98戦)を果たすと、すぐにレギュラーに定着。3シーズンを過ごした後バイエルンのライバルである1部リーグ1860ミュンヘンに移籍をする。1980年8月16日ボーフム戦にてブンデスリーガデビューを果たし33試合9得点の活躍を見せた。自身の活躍とは裏腹にチームの2部降格を経験したが2年目となる81/82シーズンには37試合37得点と、1試合あたり1得点を決める活躍を見せ2部リーグ得点王に輝くとこの活躍が認められ翌シーズンより1部の名門ブレーメンへ引き抜かれる。ブレーメンでも前シーズンの好調を維持し、新しいチームにすぐに馴染むと移籍初年度ながら1部リーグでも23得点を挙げ得点王を獲得、翌年にはドイツ年間最優秀選手賞を受賞しその地位を確固たる物とした。 代表では1982年11月17日北アイルランド戦でデビューを果たすと1984年にはフェラーにとって最初のビッグトーナメントとなった欧州選手権フランス大会に出場。フェラーはここで2ゴールを決める活躍を見せるも西ドイツは1回戦敗退。2年後のメキシコワールドカップでは、フェラーはベンチで多くの時間を費やすこととなった。というのも当時の代表監督ベッケンバウアーはルンメニゲのパートナーにアロフスを起用することを好んだからである。しかしフェラーは根気よく出場のチャンスを待ち続け、準決勝後半に途中交代で出場を果たすと89分には得点を決め2−0でフランスを退け決勝進出を決めた。決勝のアルゼンチン戦では再び後半からの途中出場。フェラーはここでも途中出場ながら同点弾となる貴重な得点を決めるがブルチャガに決勝点を許し惜しくもワールドカップ優勝を逃してしまう。勝負の世界に「たら・れば」は厳禁だが、もしフェラーがフル出場を果たしていたら結果は逆のものになっていたのかもしれない。 メキシコでのフェラーの力強さと才能はイタリアのローマをひきつけ87/88シーズンよりイタリアへ渡る。ここで5シーズン過ごし90/91シーズンのコパ・イタリア優勝に貢献した。セリエAにおいても挙げたゴール数は通算45得点と量産的なものではなかったがそのテクニカルなゴールはロマニスタのみならずイタリアの人々に深い印象を与えている。ローマ在籍中に地元ドイツで行われた1988年欧州選手権では後に優勝チームとなったオランダに準決勝で敗れる。しかし2年後行われたワールドカップイタリア大会、決勝トーナメント1回戦で再びオランダと合間見える。この試合で見事リベンジを果たしたが、フェラー自身はライカールトとの間に起こった「つば吐き事件」によりわずか22分で共に退場する事となってしまった。セミファイナルのイングランド戦で復帰を果たすと埋め合わせをするべく、フェラーは精力的に走り回り、その突破は決勝戦にてPKを誘い、このPKをブレーメがしっかり決めワールドカップ優勝を果たし、フェラーは自身初のワールドカップをローマのホーム、オリンピコにて高々と掲げたのである。 フェラーは後にマルセイユに移籍。八百長事件によりリーグタイトルは剥奪されるがチャンピオンズ・リーグでは決勝でミランを退けフランスクラブ初のビックイヤーを獲得すると1994年アメリカワールドカップにも出場しこれを最後に代表を引退、その後レヴァークーゼンに2シーズン在籍すると現役生活にピリオドを打った。現役引退後はドイツ代表のケアマネージャーを経て代表監督に就任。2002年ワールドカップでチームを準優勝に導いたことは記憶に新しいことだろう。 (01/03/15 Created)(03/09/15 Last updated)Presented by SHOW football Island | ||||||||||||||||||