ZICO
ジーコ | ||||||||||||||||||
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70年代から80年代のブラジル代表をジーコ抜きでは語る事は出来ないであろう。その魅惑的なプレーと創造力によってゲームを支配し、代名詞とも言えるFKは芸術そのものであった。「白いペレ」というに相応しい決定力も備えセレソンの10番を背負った歴代選手の中でも正真正銘のファンタジスタと賞される。 ジーコことアルトゥール・アントゥネス・コインブラは元サッカー選手であった父親、長男(ゼッカ)、三男(エドゥー)の影響から幼年時代よりサッカーを始め、その後名門フラメンゴの入団テストに合格する。まだ幼さの残るジーコであったが、ここで精密な肉体改造を受け、その計画は食事療法から筋力トレーニング、更には歯の矯正にまで至った。その後19才でトップデビューを果たすとすぐにレギュラーとして活躍、1972年州選手権優勝に始まるチームの黄金期を築き、瞬く間にスター街道を駆け上がっていく。5度の州選手権、3度の全国選手権を制すると、この間3度の南米最優秀選手にも選出されている。1981年には現在までクラブにとって唯一となるリベルタドーレス杯を制覇、同年に開催されたトヨタカップでもリバプールを相手に3ー0全ての得点に絡み世界1の称号も手中、言うまでもなくこの試合の最優秀選手に選出された。1983年より欧州へ渡りセリエAの舞台で活躍、選手層の薄いチームの中で絶大な存在感を示し83/84シーズンには19ゴールを挙げ得点ランク2位、このシーズン得点王となるプラティニに次ぐ記録であった。その後古巣フラメンゴへ復帰し1987年の全国選手権優勝に貢献、1990年に一時引退したが、翌年に鹿島アントラーズの前身である住友金属に入団、1992年のJリーグ前期初代チャンピオンの原動力となった。 代表デビューは1976年2月25日ウルグアイ戦。すぐにブラジルサッカー界を担う逸材として注目されるが1978年W杯ではコウチーニョ監督との衝突もあってリベリーノの存在を超える事が出来なかった。その後名将テレ・サンターナの元で不動の地位を確立、1982年W杯では優勝候補に挙げられながら2次リーグで敗退、イタリアのエース、ロッシのハットトリックに涙を飲んだがソクラテス、トニーニョ・セレーゾ、ファルカンと共に形成した黄金の中盤は世界各国から絶大な評価を得た。1986年W杯では大会直前まで怪我が治らず大会途中から出場、準々決勝フランス戦では決勝弾となるはずであったPKを外してしまいチームもPK戦の末敗れるという不運な結果に終わっている。ただ、国際舞台でのタイトルとは無縁ながら、その存在が色褪せる事はない。代表通算89試合66得点。 2002年ワールド杯後、トルシエジャパンの後を継いで日本代表監督に就任、就任直後は思うような結果が残せず、解任デモまで起こる始末であったが、それでも序所にチームを育成させ2005年アジアカップ優勝、更に2006年W杯への切符も掴んでみせた。 (01/03/15 Created)(06/08/17 Last updated)Presented by SHOW football Island | ||||||||||||||||||